西風東風


微笑み

野村 郁子(山口市 美術家)

 忘れられない人がいる。私が幼い頃、若いご夫婦が犬を連れて近所に越してこられた。奥さんは、優しくて綺麗な人だった。くせのある長い髪を後ろで一つに束ね、前髪からのぞく富士額と口元の黒子が印象的だった。そして、九州訛とラ行が苦手な話し方が、私はとても好きだった。長い髪も九州訛も新鮮で美しいものだと思った。
 新たな近所付き合いが始まり、私と弟は奥さんにかわいがってもらった。しばしば家にいって犬と遊び、奥さんも家に来て母や祖母と話をしていた。
 一度だけ、姉弟で泊まりに行ったことがあった。いつものように、犬と遊んだり、食事をしたり、日常の延長だったと思う。それまで気付かずにいたが、子供のいないはずのご夫婦の家に、赤ちゃんの写真が一枚、壁の高い所に飾ってあった。見てはならないものを見てしまったような心境になった。このことは心の奥にしまっておこうと思った。
 それからも、行ったり来たりの近所付き合いは続いていたが、数年が過ぎた頃、ぱたりと奥さんの姿を見なくなった。私は中学生になり、高校生になり、ご主人は新しい家庭を築かれた。あれから三十年、綺麗な奥さんはあの頃のままの姿で、私の思い出の中にいる。

プロフィール:のむらいくこ。山口市鋳銭司出身。短大卒業後、山口に戻り油絵を描き始める。ふるさとの人や自然に、興味の尽きることはない。

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